人格に在る酔い。サルトル『嘔吐』

2017年6月10日

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匿名の個人の声。不透明な人格から説得力は増幅するのか。

インターネット上では全人格を曝さず、切り取った一部の人格を、志向性を持ってコマのように乖離、移動、集合、拡散させているとしたら?『ウェブ時代をゆく ――いかに働き、いかに学ぶか ウェブ進化論 (ちくま新書) Kindle版』には、人格の動向に言及した箇所がありました。

何を以て「人格」とするのか。一人称では捉えられない定義づけです。下記の記事は「人格」を考察する上でヒントを与えてくれる提言です。

2011年09月28日

ニューズウィーク日本版 > コラム&ブログ > プリンストン発 日本/アメリカ 新時代 > 「フジ子・ヘミング現象」では、人格が芸術作品の何が問題なのか?

ピアニストが奏でる音楽と、そのピアニストの人生背景を重ねた上で

“ですが、そもそもクラシックの音楽というのは過剰なまでの情報量を持っていて、何らかの人生観なり世界観に絡めて理解しないと受け止められない性質があるわけです。”

個人的には、素人の弾き手として、作曲者の作曲当時の年齢、家族構成、性格、社会背景、社会的地位、健康状態、全てを知りたくなる欲求が経験上ありました。全ての音の粒に作曲者の全人格を乗せる感覚です。しかし、人格と芸術作品を同一視することが一定の危機を含んでいるとしたら、このような方法で音楽を奏でることは、作曲者の本意ではないのかもしれないということを自覚する必要があります。

音楽とは別の視点で、人格の所在を問うとき、サルトルは、『嘔吐』(人文書院、1994年)の中で、写真を撮られている自分がどこに存在しているのかという描写から、独身者であるという人格を伝えています。風景、音楽、人物の描写を通して、彼自身の人格が、度々憂いを持ったり、狂気的になったりして迫ってきますが、読み手側からは、ここかしこに描かれる繊細な心遣いに触れることができます。すると、作品全体を包む穏やかな空気感に安堵できるのです。タイトルの直訳は「吐き気」です。酔いのイメージからすると、図像投影と脳の処理がズレるように、ある現象を受け止められないときの不快感が、まさにサルトル自身の人格を浮き彫りにします。

インターネットは、この不快感を軽減するために、全人格から切り取った「一部の人格」に対し、快適さを求め浮遊させることを赦し、その人格群は集合して大きな人格に増幅します。

そこで、気になるのは残してきた(公開する予定のない)人格の所在。人格の「静態と動態」のズレに吐き気を催すのは、全人格が足枷になっているというよりは、よい意味で「無理してない?」というシグナルに思います。全人格を公開せよ!という意味ではなく、匿名を通す個人が、インターネット上で棲家を得るためには(棲家を目的化するのは語弊がありますが)、いかにゆるやかに自己開示するかによります。ただし、画面に提示されたことが事実だという信頼を前提に、という不可解な問題を残していますが。

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先月から、ある人の記憶の中から私がいなくなっていく経験をしています。本人に聞いたところ、記憶がなくなっていくことは、恐怖を感じることがあるそうです。そういうときに、私が寄り添うと安心だと言われました。私との記憶の一部が蘇り、感情を表出すると安心するからだと言っていました。

記憶を留めるため、行ったことがない場所へ運転する機会が多くなりました。

地方は、道路状況が空いていて複雑な交通網ではありませんので、Googleマップに頼らなくても、土地勘さえあれば、迷うことはないと高を括っていました。結局、ナビの音声に頼らないと同じ場所をグルグル周回することが分かりました… かもしか、くま、いのししと遭遇するような場所でもGPSは見守ってくれます。

途中、本人が20代の頃に勤務していた場所を通過し、現在の機械(ナビ)が、遠い過去に連れていってくれることに時間を超えた結実を思います。緯度、経度、現在、過去。軸が増えるたびに、位置の精度が増す感覚は、誰かの記憶中の私が、消えないこと。私の人格は、ただそこにあるのみです。