梅棹忠雄『情報の文明学』情報産業の無自覚な受信

2017年6月10日

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『情報の文明学』

梅棹忠雄『情報の文明学』(中央公論社、1988年) の感想です。一度でも、読者を増やすことを念頭に行動をしたことがある方は必見ではないでしょうか。

本の内容

情報が、私たちの日々の暮らしに浸透していく過程を、産業形態を背景に分類した本です。

著者の造語「情報産業」をキーワードに、論が展開されていきます。

遠かった情報が、近くに感じられた時に、その情報がどのような影響を及ぼすかという部分が、引っかかりました。

例えば、遠く感じられる情報とは、普段の生活を送る上で、対面することもない人物の生活(例として、芸能人)に関する情報などです。

遠くにあって想像することで楽しむ、あるいは隠されていた情報が、身近になった途端に、親しみを感じることもありましょう。しかし、生活水準の違いに気づき始めるのは、避けられません。

元々、生活水準が異なる世界にいる人の情報なのだから…と理解すれば、違いに気づいたところで何も思いません。発信側と受信側のステイタスが違うのですから、双方、水準はわかっているという前提があります。

では、なぜ、発信と受信がうまくいかない?というと…

遠くの想像の世界、接することもなかった情報を身近に感じることで、比較し、今までにはなかった感情が生まれる。そこで、感情の元となる情報の取捨選択をしなければならない。それなのに、取捨選択をしなくてもよいと感じてしまう、公に発言することが安易に許されていると信じてしまう構造が、情報産業には隠れているのでは?と。構造自体に非がある、とするのは材料に乏しく断言できないけれど、無自覚な私という存在が増えることで、錦の御旗に霞がかかっていくように思うのです。

無自覚な私、対処方法

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そこで、比較から生まれる感情に対処する方法として、受ける情報を少なくすることがよく言われます。しかし、今度は情報を得られない不安にかられます。

では、代替的に、Aという著者が書いた書籍の反論Bを読みます。または、AとBの共著、それに類した本など。著者双方のステータスは、職業上、互角ということを前提に。そうすると、AとBとの間の世界を傍観することができます。

ただ、それだけのことなのですが、日常の私が排除されて楽になれます。この時の感情は、読書・映像に集中している時に似ていて、習慣化された快楽です。

この習慣を続けると、次第に自分から発信することが抑えられていきます。ブレーキがかかるというのでしょうか。情報の取捨選択が促進されるというか…。

意識は高くも低くもなく

以上のような習慣に、意識が高いと評されるかもしれませんが、いつも自分の発言は論理性を欠いているから伝わらないと思い続けているので、そうせざるをえません。

立花隆『知のソフトウェア』は、読書するにあたり「方法」という技術的なことよりも、「集中」に重きを置いてありました。その咀嚼過程は酒の醸造の如く、繊細で不明瞭なものなのかもしれません。不明瞭な咀嚼過程が、無自覚な私を解明してくれるのではないかという期待が、私のどこかにあるのでしょう。

まとめ

『情報の文明学』には、情報が身近に感じた時の影響について触れられていました。自分なりに情報を咀嚼すればストレスは貯まらないと思ってはみたものの、実際は、情報が自分に及ぼす影響は、読書する過程のように不明瞭な思考過程に支配されているように感じます。

お盆シーズンも終わり、スーパーの帰省客向けお惣菜セットがなくなると、季節が変わっていくことを実感します。今日は、おそうめんを中華風にして野菜炒めとからめていただきました。献立は夏です。今、予約している本は、反論を中心にした古典です。裁判の時の参考書。日常生活と関係なさそうですが、難しいと思っている内容を咀嚼して、会話の潤滑油にします。


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